でぃおす

Dios とは、スペイン語

の意味です。




文法の授業で、以下の様な文章が出てきました。

DIos quiera que pueda aprender español.




直訳すると、この分の意味は、

スペイン語を習得することを神が望みます。

です。




スペイン語には、接続法、というものがあって、この法は、自分の希望や願望を表現したいときに使う法です。
この文は、接続法の文です。


ちょっと待てよ、と。 
この文、自分の希望とか願望じゃなくて、神の願望じゃんか。
でもなんで、「自分」の希望、願望を表す「接続法」を使うんだよ? となるわけです。



そこで先生がさらっと、何の説明もなく自然と言った言葉。

「私の望みは神の望みなのよ」






ここに、思考方法の決定的な違いがあると思うわけです。






一般的に、日本社会では、神が自分の思考の中にいつもいる、という風には考えないと思います。(もちろん、そうでない人もいると思います。)


でも


アメリカのテキサスにいた時も、モロッコにいた時も感じましたが、彼らの心の中にはいつも
「神」
がいるんです。


そして、それが価値判断基準になる。




これは、「神」と全く関わってこなかった僕にとって、非常に興味深くて、そして、好奇心を惹かれる問題です。


そして、これは世界の様々な要素を動かしている本当に大事なことです。




最近話題のGNH (Gross National Happiness)(国民の幸福を指数化しようとするもの)や最近の西欧社会とイスラム社会の対立、労働に対する各国のスタンスの違いや、文化、社会、教育、政治、等々。


これらは全てこの問題に深く関わりがあると思います。





一つ一つの問題についてはまた書く機会があると思いますが、とりあえずは、この、人々の思考の根底に流れている、

「神」

「感覚」

をつかむことが、この社会、ここの人々を理解する上で非常に重要ではないだろうか、



なんて思ったりするわけです。