パラドックス

僕、色々考えるのが結構好きで、物事を深く(といってもどれくらい深くかは知らないけど。。。)考えるのはあまり苦じゃないし、歩いたりバスに乗ったりしてるときも気がつくと色々考えてたりします。

まあ、人によっちゃ、そんな事考えて何になるの?意味ないじゃん、的な事ですね笑

まあ、趣味、みたいなもんです笑 なので、悪趣味に少々お付き合いください。笑





さて、今まで色々考えてきた中で、パラドックスにぶつかった事が何度かあります。





ひとつめ。

高校の時くらいに、色々本を読んでいたら、凄く頭のいい人達や学者の間でも、意見や主張や異なる事を知って、「絶対的真理なんてないんだ!」って思いました。オクスフォードの教授とハーバードの教授が全く違う事を言ってたりする。どっちを信じれば良いんだ?みたいな。ああ、つまり、絶対に正しい事なんてないんだ!と。

でも、これ、パラドックスだと思います。

「絶対的真理なんてない、という絶対的真理」を持ってる事になるからです。






ふたつめ。

大学の時に旅行を初めていろいろな場所に行きました。そしていろんな人種のいろんな宗教のいろんな価値観の人に会って、そして、そんな人達が共存している移民で形成されたある都市に住んでいたのが凄く心地よくて「ダイバーシティって良いな!」「多様性を受け入れる人達とすごしていきたいな」と思いました。

でもここにもパラドックスが含まれてました。

「多様性を受け入れる人達とすごしていきたい」=「多様性を受け入れない人とはすごしたくない」=「特定の人を排除している」=「自分は多様性を受け入れてない」ということになるからです。





みっつめ。

ダンスを初めて、良い音楽に耳を傾けて、心から気持ちよく踊ってる時に、「言葉では言い表す事のできない喜びや感情があるんだ」「論理的な理由なく感情や直感に従う事も大事だな」と思いました。

でもここにもちょっとした矛盾があるかとおもいます。

「論理的でないことが大事だ」ということを「言葉」つまり「論理的に」導いているからです。

これは、「宗教社会学」を勉強したときにも少し感じました。宗教ってもともと論理的なものではないと思うんです。「なぜ神がいるのか」については考えない。「神はいるからいる」んです。

その、論理的でないものを、社会科学=論理的なもの、によって明らかにしようとしているところに根本的な矛盾はあるのだろうか、と。







屁理屈、とか、言葉遊び、みたいなもんっすかね。


こんな事いつも考えてるの、悪趣味?笑