言葉
僕はダンスが好きで、こっちではサルサを習い始めて、よく踊りに行くんですが、そこで気づいた「言葉」に関する考察です。
日本では、中南米の人やアフリカの人は皆踊れてノリノリ!みたいなイメージがあるかもしれません。(当然踊れない中南米人もアフリカの人もいます。。。)
さて、日本でそういうイメージがある理由の一つに、「あたしサルサ踊れるよ!」「俺サルサ踊れるぜ!」という中南米の人が多いことがあると思います。そしてノリノリで踊ってる人も多い。
こっちで「踊れる?」って聞くと「もちろん!踊るの大好き!」って答える人が多くて、そうすると、「おお、やっぱ皆踊れるんだなあ」ってなる。
で、一緒に踊りに行くと、確かにノリノリで踊る。
で。
当然、サルサにも基本ステップとか、技、みたいなのがあるわけです。
でも、大体の人はそれを知らない。
サルサを習い始めて、いろんなステップとか技を覚え始めたので、それをペアの相手とやろうとすると、知らない事も多くて、息が合わない事も多い。
でも、ノリノリで踊っている。
つまり、こっちでいう「踊れるよ!」は基本ステップとか技を知っている事ではなくて、「サルサの音楽に合わせてノリノリで体を動かせるよ!」ということです。多分。
これは別に、彼等が「口だけ人間」な訳ではないわけです。
「踊れる」という言葉の定義、その言葉が何を意味するか、が彼等と僕らで異なってるだけです。
これはダンスだけに当てはまる訳じゃありません。
例えば、日本で「俺、英語喋れるよ!」というと、「ペラペラ」を想像しがちですが、挨拶ができれば「喋れるよ!」という人もいるわけです。
どっちが悪いとか言ってる訳じゃありません。言葉に対する感覚の問題です。
これは多分、一般化すると、「ある言葉が持つ意味あいの違い」の問題です。
これ、結構、大事な問題だと思う訳です。政治とか学問とか、そういう真面目な世界でも大事だと思う。
たとえば、今、仕事で、「地方の貧困削減」みたいな事をやっていて、山奥に住む、貧しい地域に入っていったりすることがあります。そして、彼等にインタビューする。
すうすると、彼等は当然、一様に「貧しいから収入を増やしたい」と言う訳です。
そうすると、援助機関とかは、「ほらやっぱり彼等は貧困に苦しんでいて、そこから抜け出したいんだ、手助けが必要だ!」となる。ニカラグアの農村部の人の80%は貧困から抜け出して収入を増やしたいと思っている、見たいなアンケートに基づく統計結果とかレポートが出てきたりする。それを元に研究が進んだりする。
ただ、そこでちょっと立ち止まって「貧しいから収入を増やしたい」という言葉を、彼等はどういう意味で使っているのかを考えてみる。
彼等は、幸せそうに暮らしている訳です。そして、結構暇な時間も沢山あるように見える。で、テレビを見てたりする。
まあ、日本人的な、というか西欧的?な価値観から言うと、「収入増やしたいとか言っといて、怠けてるじゃないか、それじゃ収入は増えないよ!」となる。
でも、彼等の「収入増やしたい」はもしかしたら「いや、楽して収入増やす方法があるなら増やしたいけど、そんなに労働時間増やしてまで収入増やしたい訳じゃないよ」という意味かもしれない訳です。
ちょうど、「踊れるよ」が「音楽にのって体を動かせるけど、基本ステップとか技とかは知らないよ」というのと同じように。
一応誤解なきように言っておくと、彼等が怠惰だとか、不真面目だとか言っているのでは全くありません。
「英語喋れるようになりたいけど、その他のものを犠牲にしてまで喋れるようになりたいとは思わないよ」という人がいるのと一緒です。彼等が怠惰な訳ではない。選択の問題です。
言いたいのは、言葉が持つ意味は人や文化や国によって異なるよ、ということです。
そしてこれは別に海外だけの話ではありません。
身近な例でいうと、テスト前に「俺めっちゃ勉強したぜ」っていう人がいたとして、彼等の言う「めっちゃ勉強した」は人によって異なる訳です。
3時間勉強したら「めっちゃ勉強した」な人もいれば、10時間勉強しても「まだまだ足りない」な人もいるわけです。
どっちが悪いとか、どっちが誇張癖があるとか、そういうことではないでしょう。どっちも「めっちゃ勉強した」と思ってる訳です。
これが、言葉によるコミュニケーションの面白い所であり、弱点であり、気をつけなければならない点だと思います。
「あなたあたしの事愛してるって言ったじゃん!」
「いや愛してるとは言ったけど、プライベートや趣味を犠牲にしてまで愛するって意味じゃなかったんだけど。。。」
「あなた最低っ!」
ばしっっっっっっっっ!