一般化の危険性と意義

こないだ、お仕事であるミーティングをしていて、面白い話をしました。


活動先のNGOでは、小規模のビジネスに小額融資をしています(マイクロファイナンス)。

今回、その融資先(顧客)の人達を集めてインタビューを行い、彼等が自分のビジネスを進める上で、また、うちのNGOが提供している融資を活用する上で、どんな問題にぶつかってきたのか、どういう風にしたら上手く行ったのか、などを纏めて、一つのガイドブックみたいなのを作ろう、となったわけです、

マイクロファイナンスプロジェクト、こうやったら上手く行くよ!本」

みたいな感じでしょうか。




さて、その会議をしている時に、「なんでこういう、ノウハウ本、方法論、を纏める必要があるのか」みたいな話になりました。


「おお、そんな根本的なとこから議論するのか!!そういうの好きだ!!笑」って感じでした。笑



会議の結論としては、「当然、個別のケースに、一つ一つ対処していかなきゃ行けない事は言うまでもないんだけど、それでも、ガイドみたいなのがあったほうが働きやすいから、そういう一般化されたマニュアルみたいなのを作る事には一定の意味があるだろう」みたいな話になりました。








これって、もうちょっと大きな話にすると「一般化には意味があるのか」みたいな話です。


例えば、経営学を勉強して、勉強した知識とかベストプラクティスとかを実際の仕事にあてはめようとすると、上手くいかない、みたいな事って結構あるんじゃないでしょうか。

それで、こいつは勉強はできるけど頭でっかちで、実践では使えない、みたいなレッテルを貼られたりする笑

理論ばっかりこねくりまわしやがって、机上の空論だ!みたいな笑







こないだも書いた様に、いろんな事をすぐ一般化するのは危険だと思います。

一般化すると、例外を無視したり、少数意見を考慮に入れない事になったりするからです。





気が弱いアメリカ人もいれば、時間を守るラテン人もいるし、ダンスが大好きな日本人(俺!!??笑)もいるわけです。


「経済発展の為に西洋的価値観を押し付ける事は正しいか否か」、なんて、個別のケースが無数にあるので一概には判断できないわけです。








さて、でもでも、上に書いた様に、会議の結論で話された様に、一般化にはそれなりの意義があるんじゃないでしょうか。





もうちょっと深く考えてみました。




一般化はものごとを考える上で必ず必要じゃないかなーなんて思います。っていうか、言葉って一般化の産物だと思う訳です。




単語って、数ある個別のものを一つに纏めたものでしょう。

「幸せ」とか「人間」とか「社会」とか「机」とか

そういう、ほとんど全ての単語(固有名詞以外)は「一般化された概念」という事ができるでしょう。いろんな幸せの形があり、様々な人間がおり、多様な社会があり、種々のデザインの机があるわけです。

なので、一般化しないと会話することすらできなくなってしまいます。もちろんこれは極論ですが。。。





ということで、はい、結論:

1:一般化には意味があると思います。それによって考える事ができる様になるし、大きなイメージを掴む事ができる様になるからです。
例えて言うなら、旅をする時にガイドブックや地図があったほうが歩きやすい、みたいな感じでしょう。
一般化された概念は、地図、みたいなもんでしょう。ラテン人は陽気だよ、という一般化された概念を持っていれば、ラテンアメリカに実際に行く前に、ある程度のラテンアメリカに関するイメージを持つ事ができます。

2:でも、世界は変化し続けているし、常に個別の特殊な事象が発生しているので、一般化された概念を持ちつつも、その場その場で自分の頭で考えて、個別のケースに対処していく事ももちろん大事でしょう。地図は持ってるけど、地図からじゃ見えない事もあるし、その地図がつくられたときから変わっている事もあるから、実際旅してみるとまた違った世界観が持てるんじゃないでしょうか。
ラテンアメリカに実際にいってみると、内向きでシャイなラテン人も結構いることに気づいたりするわけです。






学問と実践、両方大事、と言われるのはこういう事なんじゃないかなーなんて思ったりしました。