違った常識の中で生きる人々とどう共存するか

こないだイタリア人と話をしました。


彼はイタリアのNGOで働いていて、ここニカラグアにくる前はアフリカのある国のある田舎のコミュニティで仕事をしていたそうです。



そこのコミュニティでは独自の言語を使っていて、その言語には「所有」を表す言葉が一つもないそうです。

英語で言うと「my」とか「your」とか「his」とか「mine」ですね。

日本語でいうと、「私の」とか「あなたの」でしょうか。




そう、このコミュニティには「所有」という概念がないんです。





全て、皆のもの。家も、食べ物も、家畜も、ぜーーーんぶ、皆の「共有物」みたいです。







これは、「所有」という概念を大前提として成り立っている資本主義社会に住んでいる僕らとしては、かなり受け入れがたい概念ですが、受け入れがたいにしろ受け入れがたくないにしろ、地球上にはそういう人も住んでいる、ってことです。






これは極端な例ですが、同じように、「全く異なる常識の中」で住んでいる人は、地球上に沢山います。



というか、世界では「日本人は世界の常識とは異なる常識の中に住んでいる」というのが通説だそうです。笑 (ある政治社会学者の先生に質問したらそういう答えが返ってきた。)


僕がそれを最初に肌で体験したのは、テキサスに留学していた時でした。テキサスには信仰心の強いクリスチャンが沢山いて、彼等は進化論を信じていないし、全ては神のプランだと本気で信じている。憲法よりもバイブルが正しいと信じていて、全ての行動基準はバイブルに準じている。(例えば、「なんで人を殺しちゃ行けないのか」という当時日本で流行っていた質問をぶつけてみたら「バイブルに書いてあるから」という答えでした。)

彼等との会話は、凄く楽しかったです。そんな禅問答をするのが楽しくて、毎週教会に通ってそんな議論を吹っかけてました。笑







これから「グローバル化」とやらで、そういう人々が入り交じって生きて行く世界になるんでしょう。





そんな中で、そういう「全く違った常識を持つ人々」とどうやって共存していくのか、コラボしてなにか新しいモノを産み出して行くのか、が最も難しいところであり、

そしてなにより、もっともエキサイティングで楽しいところでしょう。






自分と全く異なるを常識を持つ人々に対して、どういうスタンスを持つかで、人生の幅は大きく変わってくる様な気がします。

自分とは全く違うものとして拒絶するのか、自分もちょっとその常識取り入れてみてもいんじゃね?と思ってみるか。



自分の常識をこれからもどれだけぶち壊して行き続けられるか、楽しみです。










〜常識とは、十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう〜

アインシュタイン