橋を架ける ①
大学4年生の時に、会社に内定をもらって、そこに行く事を決めた時に、教授の一人にこんな事を言われました。
「お前も利益追求集団の一人になってしまうんだな」
会社を辞めて青年海外協力隊に行く時に、上司の一人にこんな事を言われました。
「俺らが納めてる税金使ってボランティアなんかしに行くんだな」
青年海外協力隊から大学院に行くとき、同僚の一人にこんな事を言われました。
「机上の空論を振りかざす頭でっかちになるんだな」
これは少し悲しい事だなあ、なんて思います。
彼等の言っている事はどれも正しいです。元々働いていた会社は利益追求手段だし、青年海外協力隊事業の予算は当然税金から来ているし、大学院では主に理論を勉強します。
でも、問題は、彼等がお互いの価値をリスペクトしてない様に思える事です。
大学の教授の給料は、会社員が一生懸命働いて納めた法人税や所得税から来ています。(僕は国立大学だったので。でも私立大学も助成金とかをもらっていると思うので、多かれ少なかれ同じ事だと思います。)
日本の会社が海外でビジネスを展開できているのは、青年海外協力隊が地道に草の根で活動して日本という国のイメージアップに貢献しているからかもしれません。日本という国のブランドイメージは、まだまだ世界中で高いと思います。
青年海外協力隊の活動は、少なからず学者がつくった理論に沿って展開されているでしょう。どういう開発活動が効果的なのか、どういう社会課題に取り組むべきなのか、とかについて僕は勉強しましたが、それは学者さん達(もちろんそれだけではないが)によって書かれたものです。
世界や社会は、いろんな分野のいろんな人々がそれぞれの役割を果たして成り立っていると思います。
けれど、普段の生活ではそれを忘れてしまいがちです。
高校生のとき、大学入試センター試験は、僕に取って人生を左右する一大イベントでした。センター試験の当日。あたかも世界、社会全体がセンター試験というイベントを中心に回っているかの様に感じたのを今でも覚えています。全国の高校三年生が緊張した面持ちで各会場に向かい、電車も混雑し、新聞やニュースもそれについて取り上げている。
でも、大学に入学して1年後、翌年のセンター試験の日、それはただの大学の授業が休みの日でした。二日酔いで寝ていて、気づいたら終わっていた、そんな感じだったように思う。
僕らは本当に自分の周りの事にしか注意を払わずに生きているんだなあ、と思った瞬間でした。
自分の周りで起きている事が、世界の全ての様に錯覚する。
そして、自分がやっていることが正しいんだと肯定したい。自分のやっている事が価値があると思う為の一つの手段は、他の事は自分がやっていることよりも価値が低い、と思う事かもしれません。
でも、実はそんなことはない。
今も世界のどこかで誰かが何かをしている。それで世界がまわって、それで僕が生きている。
でも、世界は広いので、それを全部イメージしたり、考慮に入れながら生きるのは難しい。
自分がやっている事に誇りを持つ事は大事だと思います。でも、それは、他人のやっている事の価値を否定する事とは違うでしょう。
もちろん、本当に価値がない事を批判する事は大事です。そうやって社会は少しずつ良くなって行くと思うから。
でも、利益追求会社を批判した教授は、その会社で働いた事あるんでしょうか?
青年海外協力隊を批判した会社員は、海外でボランティアした事あるんでしょうか?
理論を批判した実務者は、本気で理論を勉強したことあるんでしょうか?
もし批判する対象の事があんまり分かっていないのにネガティブなイメージを抱いているとしたら、少し悲しい事だなあと思います。
そういう、今は別々に存在しているセクターや職業、分野をつなげられるような人になれたら良いなあ、と思う。
そしたら、皆がお互いをリスペクトし合える、もう少しだけ良い世界が生まれると思うから。
そういう機能を、英語では「Bridging Function」というらしい。
Bridging。橋を架ける人。