ジェンダーと自由について - キューバ その3 -
さて、こないだ書いた様に、キューバに行ったのはサルサを練習する為ですが、僕はダンスを通じてその社会を見るのも大好きなので、ダンスの先生とか、クラブやバーで知り合った人に色々話しかけたりしました。
さて、キューバの旅でテーマにしていたのはズバリ、「サルサダンスと男女関係、ジェンダー」についてです。むふふ。
って、そんな怪しい考察じゃありませんよ。笑
真面目な考察です。
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ご存知の様にサルサはペアダンスで、基本的には男性がリード、女性がフォローです。そして、女性を躍りに誘うのも基本的には男性です。踊りましょう、と手を差し出すのは中南米では基本的には男性です。女性は誘われるのを待っています。(もちろん例外もあります。)
これが、シャイな僕にとっては非常にきつかった。笑(本当です。) サルサを初めたばかりの僕は、いつも「上手く踊れるかな」とか「こいつ下手だなって思われたら嫌だな」なんて考えちゃって、なかなか誘えません。なので、モヒート(キューバで有名なラムとミントのお酒)を2、3杯飲んでやっと誘える感じでした。
ちなみに、男性が女性を躍りに誘う事は「ナンパ」みたいなチャラいイメージはなく、ごく普通の事とされています。というか、むしろ、「お前、女性を誘わないなんて失礼だよ」とキューバ人の友達には言われました。。。
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さて、「リードするのは男性、躍りに誘うのも男性。女性はフォロワー、躍りに誘われるのを待っている」という話を聞いて皆さんどう思われますか?
多分大まかに二つの意見があるかと思います。
① へー、面白い文化だなあ。日本とは全然違うなあ。
② なんて男性中心的な社会なんだ!けしからん!
皆さんはどう思われますか?
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さて、僕は一応自分の事を「男女平等推進派」だ!なんて思っていたので、ある時、踊っていた相手の女性に、「ねえ、君も自分が好きなムーブをしたいでしょ?気が向いたら僕の事をリードしてみてよ。」と言いました。
注:サルサにおいては、基本的に次にどのムーブをするかは男性が決めるので(それが「リード」ということ)女性はそれに従うことになります。
そうすると、なんと怒られてしまったのです。
「あなた何バカな事言ってるの!?女性が男性をリードするなんて変だわ!そんなの見栄えがしないじゃないの!」
これには考えさせられました。
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僕がよかれと思っていた「男女平等」が、キューバのサルサコミュニティでは受け入れられなかった、ということです。
そもそも、男女平等ってなんでしょう?男女をまったく同じ様に扱うことでしょうか?
じゃあ、例えば、夫婦で買い物にいって、荷物が重くても、夫婦でまったく同じ重量の荷物を持つ事が「平等」なんでしょうか?
(ちなみに、これに対して「yes」と答える人もいます。理由としては、そうやって男性が女性を甘やかすから女性がダメになるんだ、と答えた友達がいました。女の子の友達です。それはそれで一つの意見として受け入れるべきでしょう。)
これに対する一般的な答えは、
「男女平等」は、必ずしも男女を同じに扱うということではない。ただし、「機会の平等」を与えるべきだ、というものでしょう。
男性より女性の方が選択肢が少ない、というのはダメ、フェアじゃないよ、ということです。
これには一見納得です。女性だからという理由で昇進の可能性が低い、女性だからという理由で良い教育が受けられない、というのは良くないよ、ということです。うん、それには100%同意します。
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しかし、これをサルサに当てはめて考えてみるとどうでしょう?
男性は、自分の好きなムーブをえらべます。それに対して、女性は男性が選んだムーブをフォローします。
どう考えても、男性の方が選択肢が多いです。
とすると、サルサは、「男女不平等なダンス」なんでしょうか?
男女平等を推進する社会では将来もしかして、サルサは「男女不平等の価値観を推進するダンス」として、禁止されちゃったりするんでしょうか!!???
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「機会の平等」の根底に流れている思想は、「自由を大切にする」という考え方だと思います。
人は自由であるべきである。だから、誰しも、自由を享受できるべきであるし、自分で変えられないもの(性別とか生まれとか人種)によって自由の度合いを制限されるべきではない。
でも、自由であることは最上の価値なんでしょうか?もし、自由であっても幸せでなかったら?
(参考:https://www.ted.com/talks/barry_schwartz_on_the_paradox_of_choice?language=ja)
自由とは怖いものだったりします。だから、サルトルが「人間は自由の刑に処せられている」なんて言ったのかもしれません。
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サルサで、フォロワーの女性が、男性のリードという「制限された自由」の中で最上の幸せを感じられれば、それで良しとするんでしょうか?
それとも、やはり、それはあくまで「制限された中での自由」であり、「本来、人間は自由になるべき」なので、それは「偽の自由」として正されるべきものなんでしょうか?
とすると、「制限されていない自由」なんてホントにあるんでしょうか?
*この記事のタイトルは「ジェンダーと自由について」ですが、ジェンダーについて細かく考察していません。なぜなら、ジェンダーは「男女」だけの問題ではないからです。「男女」と言った時点で人間はオトコかオンナのどちらかに分類できる、と仮定していることになり、それはLGBTの権利やその他の性的マイノリティに配慮が足りない事になるからです。それについては後日書きます。