質的調査と量的調査と正義

今の職場では、社会調査、みたいな事をよくやります。


例えば、なんらかの国際機関がうちのNGOに、「どこどこ地域での女性の起業状況について状況を知りたいから、調査をお願いします」なんて依頼してきて、その調査をして、調査結果を提出して、コンサルティング料としてお金をもらうわけです。


さてさて、僕は大学時代、全くと言って良い程勉強しなかったので、調査手法とかほんと分からずに、最近勉強中です。


そうすると分かってきた面白いことがあって、その一つに、「質的調査と量的調査」があります。
(ちょっと勉強した程度の浅知恵なので、間違っていたらすいません、、、ご指摘ください。)




例えば、「ある法律Aがある地域Bの女性の収入アップにつながったかどうかの効果」を確かめる調査をするとしましょう。




その場合に、量的調査では、地域Bに住む女性1000人にインタビューして、各々がどれくらい収入アップしたのか、または収入ダウンしたのかを集計して、トータルでアップしてれば、「あ、やっぱりこの法律Aは女性の収入アップに貢献したんだ」となるわけです。


注1(簡単に説明すれば、の話です。詳しく言えばもっと細かく議論しないといけないでしょう。例えば、法律Aが施行されたのと同じ時期に、女性の収入を押し上げる様な他の出来事が起こっていたなら、女性の収入アップに貢献したのは実は法律Aではなくて、その出来事だった、ということになるかもしれません。原因と結果の関係を突き止めるのは意外と難しくて、そのテーマについてはまた後日。。。笑)

注2 (地域Bには1000人以上の女性が住んでるかもしれませんが、1000人を対象として調査することで、全体を予測することができるようです。数が多ければ多い程正確になります。国勢調査、とかは全ての家庭を調査するので、一番正確です。でも、全ての費用にそんな時間とお金をかけられないので、一部分に絞って調査するようです。ニュースとか新聞で、選挙の調査とかで「有権者1000人に聞きました」とか言ってるのが、それです。開票率が1%なのに当選確実!とか言ってるのは、残りの99%もほぼ間違いなくその1%と結果が一緒だろう、という予測に基づいてるのでしょう。最低何人を対象として調査すれば信頼に値する結果が得られるのか、とかそういうことは統計学、という学問で扱われる分野で、これもまた後日。。。笑)



さて、この量的調査で、たとえば、1000人中900人の収入が20%アップして、100人の収入が10%ダウンした、という結果が出たとしたら、これは「やはり法律Aはこの地域の女性の収入アップに貢献したんだ」という結論になるでしょう。全体の和として見れば、女性の収入の送料はアップしてるからです。



これに対して、質的調査は、少数の人へのインタビューを行って、どういう風な影響がでたか、みたいなことを聞き取ります。


例えば10人にインタビューして、法律Aの施行後、彼等の生活がどう変わったか、みたいな事を聞きます。


さて、この質的調査で、10人中8人が、生活が改善した、と回答し、残り2人の生活は悪化していたとしましょう。その、生活が悪化した2人の話を掘り下げて行くと、その悲惨な生活の悪化ぶりが明らかになったとします。実はその法律Aは元々収入が低かった人々には不利な法律で、全体としてみれば収入は上がったけど、元々収入が低かった人達の生活はますます困窮してきている、ということが分かったとしましょう。






さあ、この量的調査と質的調査の結論として、法律Aはこのまま続けるべきでしょうか、それとも廃止すべきでしょうか!!??






こんなとき登場してほしいのが、サンデル先生!! 
"Justice, what's the right thing to do?"のあの人です。

Justice: What's the Right Thing to Do?

Justice: What's the Right Thing to Do?




上の例で、量的調査の結果をみると、「おお、全体として収入は大きくアップした!法律Aはやはり有効だったんだ!」となります。

これは、功利主義の考え方に近いと思います。
功利主義http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9F%E5%88%A9%E4%B8%BB%E7%BE%A9


これは、「最大多数の最大幸福」という言葉にも代表される様に、全体としてプラスであれば良いよ、という考え方です。(すいません、めちゃめちゃはしょってますが。。。間違ってたらご指摘ください。。。)

民主主義はこの論理に基づいているのかもしれません。「多数決」が重要な意思決定方法の一つですから。



でも、この論理には欠陥があります。

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

この本の中で、こんな例がでています。
古代ローマのコロシアムを想像してください。奴隷の剣士と猛獣が戦うのを見て、市民が楽しむ訳です。
これ、現代で考えたら完全に人権侵害ですね。

でも、全体としてプラスであれば良い、というのであれば、観客の幸福の総量が奴隷剣士の命の価値より大きければ、このイベントはやって良い、ということになります。






これに対して、いや全体でプラスであろうが何だろうが、犯してはならない人間の権利があるよ、というのが、基本的人権とか、自然権の考え方だと思います。


質的調査をしていると、「全体としてプラスであったとしても、この人達がこんなに辛いのはおかしいんじゃないか」という視点もでてきます。







で。








量的調査に没頭しすぎると、一人一人が見えなくなります。1000人、というデータの背後には、一人一人の生活、人生、想い、信念、があります。900人がOK!というからといって、100人の人生を切って捨てるのは、相当な決断です。あなたがその決断によって不利益を被る100人の一人だったとしても、全体最適の為にその決断をできますか?ということです。

それがNOであるなら、考える必要があるでしょう。



逆に、質的調査に没頭しすぎると、一人一人の人生に入り込み、感情的になるがあまり、全体最適が見えなくなります。目の前にいる苦しんでいる人と同じくらい苦しんでいる人は他にも沢山います。目の前の人を救いたいが一心で、その人だけの利益になる決定をして、他の多くの人に苦しみを広げたら、意味がありません。




緒方貞子さんが言っていた「熱い心と冷たい頭」とはこういう事なのかもしれません。









何かを決める時には(そして、実は「何も決めない」、という、「決断」をしている時も含めて)必ずそれによって得をする人と損をする人がいます。

(全員が得をするなら、当然それがベストです。)



その時に、どういう根拠で、どういう哲学で、どういう正義で、その決定をするのか。




それって、大事だと思います。