「傾向と対策」化社会とセレンディピティ
日本にいた時、お気に入りの場所がありました。
本屋さんです。
本屋さんなら、2時間でも3時間でもぶらぶら歩いてられました。
何が好きだったかって、テキトウに歩いてると、全く知らないジャンルの面白そうな本に出くわして、世界が広がるからです。
経済の本を探そうと思って行ったら、あるノンフィクションにたまたま出会って、経済的なものの見方をちょっと変えなきゃなって思ったり、
ビジネスの本を探そうと思って行ったら、心理学の面白い本に出会って、心理がいかに人間の行動を支配しているかに気づいて、これはビジネスにも応用できるんじゃないか、って思ったり
枚挙に暇がありません。
さて、お話少し変わって、最近、アマゾンでも本を買います。そうすると、「おすすめの本」的なコーナーが下の方に出てきて、これは意外とあたっていて、どんどんクリックして、「あー、このテーマについてはこんな論もあるんだ、あんな論もあるんだ」的に関連分野が色々学べて便利です。
でも、ここでは、本屋の様な「完全に偶然の出会い」はありません。
アマゾンのサーバの中で、「ある合理的な方法論によって解析されている僕の過去のアクセス情報」が元になって、「おすすめの本」が出てきているので、まったく突拍子もない本が出てくる事はないです。
でも、その突拍子もない本こそが、新たな面白いアイデアのヒントになることもあります。
さて、これは、もうちょっと大きな話にもっていく事ができるような気がします。
今の社会、特に西欧的な「理性に信頼をおいた」社会って、アマゾンの「おすすめの本」紹介サービスみたいに、
「合理的に合理的に考えて、その人に何が合っているか、その人がどういう道を歩むべきなのか、を考える」
社会になっていってると思います。
もっというと、
「合理的に考えて分かる範囲内でしか物事が行われない」
社会、になってると思います。多かれ少なかれ。
例えば、
「あなたは経営学部を卒業して、3年間、ある事業会社で働いたから、次はMBAをとって、その後はコンサルとして働いてみれば?」
とか
「あなたは外交的だから営業の仕事が向いてるんじゃない?」
とか
「うちの会社のこの技術とあの会社のあの技術を合わせたら、こういう新しい技術が生まれて、売れるだろうから、共同ベンチャーを作ろう」
とか。
ま、これ、当たり前と言えば当たり前ですね。あえて分かってない事をする必要はないですから。。。
(もちろん例外もあります。。。僕は社会学部だったのに、商社のIT部門で働いてましたし。。。笑 なんの関わりもない。。。笑)
これを、ある友達は、こないだのブログへのコメントで「傾向と対策」化社会、と呼びました。
http://d.hatena.ne.jp/Vivalavida0423/20131105/1383682774#c1384056317
なんて素敵なネーミングセンスだ。。。
上に書いた様に、「傾向と対策」化は、ある意味当たり前のことです。皆、自分の頭で分かる範囲で行動する。その分かる範囲を広げようとして、色々勉強したりして、学問が進歩したりする。
でも一方、「傾向と対策」化が進むと、本屋さんでの偶然の出会いみたいな、全く違う分野や領域への、理性で分析できる範囲を超えた「ジャンプ」がなくなる気がします。
なくなる、というよりは、「しにくくなる」という方が正確かもしれません。いつでも、ジャンプする事はできるんだけど、周りがあまりに「傾向と対策」するので、それから外れる行動は奇異に見える。
この「ジャンプ」を、難しい言葉で言うと、「セレンディピティ」と言うらしい。
セレンディピティ:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%94%E3%83%86%E3%82%A3
個人的な経験から、この「セレンディピティ」は、人生の醍醐味であり、新しい思考の視点をもたらしてくれるものであり、好奇心を刺激してくれるものだなあ、なんて思います。
「傾向と対策」化を一概に批判する事はできません。
説明責任や、透明性が求められる世の中ならなおさらです。
例えば、政府が、国民の税金から、ある研究開発に「うんちゃら億円」の予算を付けるとしましょう。
でも、その研究開発費の申請書に「セレンディピティは新しいアイデアをもたらしてくれるから、研究員を世界一周放浪旅行に行かせる為に、1億円申請します」とか書かれてたら、「ふざけんな!」となるのも大いに理解できるでしょう。笑
それがむずかしいとこ、なのですが、でも個人的には、できる範囲内で、「セレンディピティ」を楽しんでいきたいし、そこから多くのものを学んで行きたいなあ、と思います。そして、勇気をもって「セレンディピティ」に出会う機会をつくっていきたい。
それは、前書いた様に、すべては繋がっている、と信じているからだし、
世界は予測できないから楽しいと信じているからです。
「傾向と対策」は、自分や人間が理性で分かっている範囲内で、行うことができます。
でも、人間が理性で分かっていることなんて、世界のほんの一部にしか過ぎない気がします。
だから、その理性で分かっている範囲内でたてた「傾向と対策」が、「偶然の産物」(=セレンディピティ)より正しいか、なんて分からない訳です。
だから、ぶっとんでいっていこう、ぶっとんで行って良いんじゃないかと思う訳です。
セレンディピティに出会いに。
(理性的に説明できないはずの、セレンディピティ、について、理性的に説明してる、というパラドクス問題は、また別の話になりますが。。。)