「言葉で伝える」という文化。〜論理とアート〜

ニカラグアで、ダンスを教える機会がたまにあります。

他のダンスのクラスを見学する事もあります。




そこで驚く事は、その教え方!


先生が前で踊ります。結構難しいステップとか、ムーブとかを先生が音楽に合わせてやります。ノリノリで!

で、生徒がそれをまねする。でも、当然、難しいから、上手くできない。誰もできてない。先生は、「見たか!」と言わんばかりの得意な顔をして、踊り続ける。ノリノリで。



先生は踊り続けます。そして、次から次へと難しいステップを繰りだしていって、生徒達はそれについて行く。でも誰もちゃんとできてない。でも、もちろんノリノリ。


それを1時間繰り返して、おしまいっっ!!もちろん皆、終止ノリノリ。




説明が全くない!

日本だったら、最初に先生が踊って、次に音楽を止めて、動きの説明をして(この時は、こういうステップで、腰の向きはこっち向きで、手はこっち向きで、みたいな)で、何回か音なしで皆で練習して、それで音楽で踊りましょう、みたいなのが普通でしょう。でも、そういう説明が一切ない!






そうすると、細かい動きとか、揃わない訳ですね。皆感覚でやってるから。笑

だから、きっと、日本のダンサーから見たら、「だから上手くならないんだよ、もっと緻密にやらなくちゃ、、、、」となる。笑

僕も最初はそう思ってました。




彼等が下手なダンサーかと言われれば、そうではない。上手い、良いダンサーも沢山いるんです。








で、最近、「これは文化なんではないだろうか」と思い出した訳です。


どういうことかって?

かれらは、ちゃんと教えていない訳ではなくて、教え方が違うだけなんじゃないか、と。







彼等はちゃんと教えているんです。ただ、教え方が違うだけなんです。多分。




(HIP HOPダンスに関して)日本人ダンサーが秀でている部分としてよく、「技術」があげられます。日本人は本当に練習熱心。だから、ダンスの技術が非常に高いです。(韓国人も一緒)

これは、HIP HOPとかBreak Danceの国際大会でも証明されていて、最近のHIP HOPの国際大会では、日本人がめちゃめちゃ強いです。(ちなみにBreak Danceは韓国が伝統的にメチャメチャ強い。)







逆に日本人に欠けているものとして、「パッション」とか「グルーブ」みたいなものがよく言われます。
(グルーブ(groove)って、普通の人は聞き慣れない英単語かも知れませんが、今辞書で調べてみたら、「(俗)楽しい事、経験。素敵な、いかすもの 。名演奏のジャズ。ポピュラー音楽のリズム。」とありました。笑)

とりあえず、なんか、そういう、「技術」では表す事のできない、「何か」が欠けているようなのです。少なくともそう言われている。









これは、「言葉で教える文化」VS「体で教える文化」みたいな文化の違いに由来するものかもしれません。


ストリートダンスの場合、もしかしたら日本は「言葉で教える文化」が先行しているのかもしれません。

(伝統武道みたいなものの場合、逆かもしれませんが。)












もうちょっと一般的に話を持って行くと、前にも書いたかもしれませんが(どの記事に書いたか忘れたのでリンクが貼れない、、、)論理や言葉では表す事のできない、「何か大事なもの」が人生には存在しているのではないか、と。



今の世の中、「論理」が凄く大事にされる世の中なような気がします。

小学校の時から「理論的」であることが評価され、いつも「合理的な理由」を求められる。

それはそれで大事な事だと思います。ってか、自分、論理的な人間だなーと思うし。笑 そもそも、こうやって色々書いてる時点でかなり「論理」よりの人間かなーとも思うし。笑




でも、全てに理由があるわけではないんです。言葉で言い表しようもない感情や表現が、きっとあるんです。



それが、きっと、「アート」と呼ばれるものでしょう。






いくら「論理」が世の中大事になっていっても、人間から「アート」の部分が消える事はないでしょう。人間は感情の動物であると言われる様に。






言葉や論理で伝える、という文化が有り続けるように、言葉や論理でない部分で伝える、という文化も有り続けると思います。






それを、どう上手く融合していくか、がまた面白いところです。





ニカラグア式の、全く言葉による説明がないダンスの教室に、ちょっと一部分、言葉による説明を加えたら、より分かりやすくなるかもしれない。


逆に、日本式の理論体に体系的に教えるダンスクラスに、一部分、「細かい事を気にせずに感情を解放して音楽を感じる時間」を取り組んだら、よりダンスの魅力に触れられるかもしれない。




別に論理とアートが必ずしも対立するもの、と考える必要もないんです。