所有の概念の善し悪し

昨日の夕方の出来事です。


昨日は夜、サルサのクラスがあったので、ちょっとクラスの前に腹ごしらえしようと、バナナをオフィスに持って行っていました。

さて、夕方5時頃、会議が終わって、バナナを食べるのを楽しみに自分のオフィスに戻ると、バナナがない!! そしてオフィスにはバナナのにおい。。。

横を見ると満足げな同僚の顔。



「おい。。。。。。てめー、食べただろ。」
「いや、だってそこにあったから。。。。お腹すいてたんだもん。。。」


そして、いっこうに謝らない。当たり前の様な顔をしている。




こんなことは、結構よくおこります。これくらいでブチキレていてはニカラグアでは生きて行けないので、まあ、やり過ごすこととします。まあ、一本5円くらいだし。。。










さてさて、前の記事でもちょっと書きましたが、所有の概念、というのは、けっこう、文化によって異なるようです。



上の例では、「そこにあるバナナ=俺のもの」という、ジャイアン顔負けの理論が成り立っています。笑
そこにバナナがあって、自分がお腹がすいていたら、食べても良い。それはそこまで悪い事ではない。という考え方です。





これは、なかなか日本では通用しないでしょう。普通、人の机の上にバナナがあって、自分がお腹すいてても、食べないですよね?笑 他人の物は自分の物ではないからです。





でもでも、
これは、日本人としては当たり前の事の様ですが、実はそんなに当たり前の事ではないのかもしれません。






私的所有権について説明しているwikipediaのこのページhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E7%9A%84%E6%89%80%E6%9C%89%E6%A8%A9


にはこう書いてあります。

アメリカ先住民、古代ギリシアのスパルタ、インカ帝国などを含む多くの地域や民族では、土地などは共有であり、私有財産の概念は存在しなかったか、明確に禁止または規制されていた。」



そう、「お前のものは俺のもの」的ジャイアン的価値観の方が当たり前だったようです。



価値観なんて時代によって大きく変わるんですねー。








さて、この「所有の概念」は、社会活動のいろんな面に関係してきそうです。以下、ちょっと考えた事。



①上に、日本では「お前のものは俺のもの」的概念は存在しないと書きましたが、まだそれが残っている所がありそうです。それは、「責任」です。「責任」に関しては、所有の概念がはっきりしていない、というか、はっきりさせない、はっきりさせたくない、傾向がある気がします。

会社で働いていた時に、業務分担の会議で、職務分担表が配られました。Aさんの担当はこのプロジェクト、Bさんの担当はこのプロジェクト、みたいな感じです。で、最後にトップの人が言いました。「この表はあくまで目安であって、自分はこの仕事しかしなくていい、という考え方は御法度です。自分の仕事が終わったら他の人の仕事を助けるのが当然です。」

この時、「仕事の役割」に関して、「お前のものは俺のもの」「俺のものはお前のもの」的な考え方がうかがえます。

ちなみに、アメリカとかヨーロッパの会社は、もっと役割がはっきりしているものと思われます。仕事の役割に関しても所有、不所有、がはっきりしているということです。




サッカーの試合に負けた時に、「誰々のせいで負けた」というのは男らしくないこととされます。「全員の努力が足りなかったから負けた。」「負けたのは全員の責任」というのが、かっこいいとされる考え方です。

この時も「責任」は誰かが所有しているものではなく、「お前の責任は俺の責任」「俺の責任はお前の責任」です。




②国際協力の世界で今キーワードとなっているのが「ジェンダー」です。女性のエンパワーメントを推進しよう、という風潮が広がっています。

最近うちのNGOで進めているプロジェクトの一つは、「農村部の女性のエンパワーメントの為に、農村部の女性に土地の所有権を持ってもらう」というものです。伝統的に、農村部では、土地(農地)の所有権は男性が持っていました。そうすると、女性は「男性の土地に間借りして居座っている者」みたいに軽視されてしまうんです。

「俺に従わないなら出て行っても良いんだぞ」みたいな脅しとかもでてくる。

だから、女性に土地の所有権を与える事が大事である、というのがこのプロジェクトの根拠です。


ここでは、「ものを所有している」という概念が精神的優位を誘発していることが伺えます。










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今の世界の潮流は、「所有権をはっきりさせる」方向でしょう。だから国際機関は②の例の様に、ニカラグアの山奥の農村に入って行って、そこの土地の所有の概念をはっきりさせようとしていたりするのです。



これは、資本主義の流れとも言えます。資本主義は私的所有の概念を大前提としています。

沢山働いたら自分の持ち物が増えるから頑張って働こう、となるわけです。

これが、「沢山働いて自分のものが増えても、お前のものは俺のもの、だから、結局増えた分はみんなが持って行っちゃう」となっては、だれも頑張って働きません。









僕個人的には、実は「所有権があいまいなコミュニティ」が嫌いではありません。


大学時代のサークルで、仲良かった友達は普通に僕が買ったお菓子を無言でとっていき、僕は彼のジュースを無言で飲んでいました。それが好きだった理由は、そこに特別な信頼関係があるような気がしていたからです。


ただ、それは、今回は俺がもらったから今度は俺がお返しをしよう、という暗黙の了解があるから成り立つ関係でもあります。


もしどちらか一方が常に恩恵を受けるばかりの関係だったら、長続きしません。そのうちどっちかが、「お前ずるいだろ」となるからです。

「空気が読める関係」でないと「所有権が曖昧な信頼関係」は長期的に成り立たないです。








グローバル化している、と言われる今の世界、様々な価値観が混じり合って「空気を読む」ことが難しくなってきている様に思います。みんな多様な価値観を持っているので、「空気」でなく契約とか論理によって所有の概念をはっきりさせないともめごとがおきます。

それは仕方ない様な、ちょっぴり悲しい様な気もします。「暗黙の了解」「以心伝心」がなくなるってことですから。






でも、そのうち、価値観が合う人同士が集まって新しいコミュニティや地域、更には国をつくって、「新しい空気」が生まれてくるのかもしれません。人はそういう、ロジックでは表せない感情的なもの、を求める存在でもあると思うから。