真面目にテキトウする ④ 〜物事の優劣を判断するのは原理的に不可能だと思う。 Anything goes, Feyerabend〜
就職活動をしていた時に、一度だけOB訪問というものをしたことがあります。
結局そのOBの人が勤めている会社は受けもしなかったのですが、OB訪問自体は面白かった。
そのOBの方が言った言葉で最も記憶に残っているのはこれです。
「君は優秀だと思うよ。地頭に関しては問題ないね。あと足りないのは企業研究だな。」
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優秀だと言われて悪い気分はしませんし、地頭が良いと言われてももちろん悪い気はしません。
ただ、どうにも違和感があった。
何故違和感があったのかをずっと考えていたのですが、この経験が、人間は何をどこまで認識できるのか、という「認識論」(Epistemology)に興味を持ったきっかけでもあります。
参考:認識論 - https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%8D%E8%AD%98%E8%AB%96
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さて、何故違和感があったのでしょう?
すこし逆の立場になって考えてみます。
例えば、僕がOBで、僕を訪問してきた学生がアインシュタイン級の頭を持っていたとします。学生は、頭が良すぎて、僕の思考の100歩先をいっているので、僕は、彼の言っている事が全く理解できません。
そうすると、僕は「君は少し論理の飛躍が激しいようだね。それに、とても理屈っぽい。そんなんでは社会ではやっていけないよ」と言ったりするかもしれない。
でもこれは、僕が彼の頭について行けていないだけです。
つまり、誰かに「頭がいい、優秀だ」と言われる、ということは、結局その「誰か」が認識できる範囲内での優秀さでしかない、ということです。
凄くひねくれた言い方をすると、「君は優秀だね」と言うことは、「君は、僕の認識の範囲内で僕が優秀と認識できるくらいの知能しか持っていないね」と言っているに等しい。
とても頭のいい人からしたら侮辱もいいところです。
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さらに、「優秀」という言葉の定義は極めて曖昧です。
何を持って「優秀」とするのでしょうか? 記憶力が良い事?理解力が高いこと?説明が上手い事?
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さらにさらに、それら全部(記憶力が良くて、理解力が高くて、説明が上手い)を併せ持った人物がいるとしても、それが「優秀」とされるのは今の時代だからです。
狩猟採集時代に、そんな能力は全く役に立たなかったでしょう。(あえて言うなら、記憶力は役に立つのかな?あそこの森のあそこらへんには栄養のある木の実がなっていて、そこにはこうしたら行ける、という記憶力はサバイバルに役立つから。)
つまり、僕らがたまたまこの時代に生まれたからそれらの能力が「優秀」とされるわけです。
時代は変わるので、今「優秀」とされる能力が今後も「優秀」と定義されるかどうかは分かりません。
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さて、これは、人に対する優劣の判断だけに当てはまるものでしょうか?
いかなる物事の優劣を判断する際にどうしてもついてまわることではないでしょうか?
「芸術とか人間の優秀さとか、そういう明確な判断基準がないものに関してそうなだけで、例えば100メートル走みたいに基準が明確なものに関してははっきりと優劣つけることができるよ」
という意見もあるでしょう。それもご最もなのですが、じゃあ次の例はどうでしょう?
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最も優劣の判断がつけやすい(と考えられている)自然科学の理論を考えてみます。
優れた理論=自然界を正しく説明している=実験でそれが正しい事が確かめられる=いろんな反論に耐えられる、という明確な基準があると思います。
でも例えば、地動説が却下された時の事について考えてみましょう。
地動説への反論に、当時次の様なものがありました。
「地球が動いているなら、何故、真上に投げ上げた石は同じ場所に戻ってくるのか?石が空中にある間に地面(=地球)は動いているはずだから、石は同じ場所には落ちないはずだ。よって地動説はおかしい(=反証された)。」
今はこの反証がおかしいことがわかります。慣性の法則というのがあるのがわかっているからです。(動いている電車の上でボールを上に投げたら自分のところにかえってきてキャッチできるのと同じ)。
でも当時の人達は(めちゃ頭良い人も含めて)慣性の法則を知らなかった。だから地動説を反証した(=優劣の劣をつけた)と思った。
結局、彼等も、自分たちが認識できている知識の範囲内でものごとの優劣を判断してたんです。(慣性の法則は彼等の認識できている知識の範囲外にあった。)
これ、あったり前の事だけどとても大事な事だと思います。
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2002年、イラク戦争の時にイラクが大量破壊兵器をもっているか否かに関連して、ラムズフェルド米国防長官は次の様な事を言いました。
There are things that we know.
There are things that we know that we don't know
And there are things that we don't know that we don't know
私たちが知っている知識があります。太陽までの距離とかはそうです。
私たちが知らないということを知っている知識があります。宇宙の広さとかがそうです。知らない、ということを知っている。
でも、3番目が恐ろしい。私たちが知らないということすら知らない知識があるんです。
むしろ、この3番目のタイプの知識が世界の大多数なのかもしれません。
(慣性の法則は昔、この3番目のタイプの知識だった。だから、人々は何かを判断する際にそれを全く考慮に入れられなかった。)
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あたりまえですが、知らないという事すら知らない物事については、考慮に入れようがありません。
それが将来知れて、世界をひっくり返すかもしれない。そしたら、今の価値判断なんて根底からひっくりかえるかもしれない。
でもそれが何かは知り得ない。だって知らないっていう事さえ知らないんだから。
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こう考えると、もう何がなんだか分からなくなります。
常識は常識ではなくなり、意味あることは無意味になり、今までの物差しはぶち壊れ、もう全てがめちゃくちゃ、カオスです。笑
こうやって全ての知識に関する優劣をつけるのをやめた状態が、Paul Feyerabendという科学哲学者の「Anarchistic Theory of Knowledge」です。
彼は言いました。
"Anything Goes."
「結局、何でも良いんだよ」と。
(科学哲学に詳しい方、違ったら指摘してください。)
実は僕が「テキトウ」を真面目にやっているのには、こういう背景があります。