事実と意見

学生のときアメリカを放浪してたとき、5ヶ月くらいテキサスの片田舎の語学学校にいた事があります。

そのとき、英語の授業で「事実と意見を判別しましょう」っていう授業があって、英文テキストの、事実の部分には赤いマーカーを、意見の部分には緑のマーカーを塗る、みたいな事をやりました。



そして先生が、「普段から事実と意見をちゃんと見分ける癖をつけましょう」みたいな説明をしました。






そこで、クソガキ並木少年は聞きました。

「進化論は事実ですか?それとも意見ですか?」




これは、今思い返してみても、良く言えば知的ウィットに効いた、悪く言えば、ガキのくせにクソ生意気で先生を困らせる質問だったと思います。笑







少し背景を説明しておくと、テキサスの田舎は、キリスト教の信仰が非常に熱く、聖書の教えである創造論進化論が相容れない、として、進化論を信じていない人も多いです。



行っていた語学学校は、テキサス州立大学付属の語学学校だったので、仲の良かった友達に、大学の医学部に通っている女の子がいました。

その女の子と話してたら、「大学のテストでは『人間は猿から進化した』と書くのが正解だから、良い成績を取る為にそう書くけれど、個人的には進化論は間違いだと思ってるわ」と言っていたのが極めて印象的でした。



僕は、決して、彼女や、進化論を信じていない人が非科学的で頭が悪い、とか言いたいのではありません。

「意見と事実はそんなにはっきり分けられるものではないんではないか」

と言いたいんです。







以前書いた事と似ています。無理数(分数で表せない実数)というのは、昔昔、危険思想として、その存在を主張したヒッパソスという数学者はピタゴラスとその仲間によって処刑されてしまいます。

ヒッパソス:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%91%E3%82%BD%E3%82%B9


だけど、今では、無理数の存在は数学では当たり前の事実だし、万人が受け入れているものです。








ということで、結論。


〜事実というのは、人や価値観、時代によって変わるんではないだろうか。今自分が事実だと思っている事も、もしかしたら誰かの一意見に過ぎないものなのかもしれない。〜









さて、その語学学校の先生の返答は今でも覚えています。これがまた何とも面白かったです。

「Taiki、良い質問ね。(にこっ)  基本的に理論(theory)という名のつくものは、万人には認められていない一つの『意見』と考えるのが普通だと思うわ」 (進化論、は英語では theory of evolution)


(彼女は大人でした。この僕の質問は、する相手を間違えると大激論になってしまう可能性のあるちょっぴり危険な質問です。笑   なんとかユーモアではぐらかした、という感じの答え方が今でもわすれられません。笑  ありがとう先生!)




「じゃあ先生、theory of relativity (相対性理論)は?」と質問しかえさなかった所が、クソガキ並木少年の唯一の大人ポイントでした。