幸せの計り方とか 〜ある日のクラブ帰りの考察〜

こないだ、コスタリカの首都、サンホセに友達と踊りにいきました。

その帰りにタクシーに乗ったのですが、そこで起こったある些細な、どこにでもある様な出来事をきっかけに色々考えたので、ちょっと書きます。


さて、何がおきたのかというと、4人でタクシーをシェアして、10ドルでいいよ!と最初言われたのに、目的地に着いたら15ドル請求された、というそれだけの話です。そう、今まで何回も経験してきた、どこにでもある話です。


さて、僕は、これに対してどういう反応をしたかというと、「まあ一人1ドルちょいの話だし、まあいいよ、ここでタクシーの運ちゃんと喧嘩するのもめんどくさいし。」

それに対して、一緒に乗っていた友達の一人はかなりマジギレしてしまって「おまえ騙したな!嘘つき!ふざけんな!」となったわけです。



それでその友達はめちゃめちゃ怒ってしまって、今日はつまらなかった、みたいな事を言いだしてしまいました。


さて。




① 幸せは直前の出来事に左右される。

その日、僕ら4人はクラブではっちゃけて非常に楽しい思いをしたのですが、このタクシーでの出来事がその日の思い出を台無しにしてしまいました。さて、これはよくある話に聞こえますが、心理学的に結構面白い考察をすることができます。

最近、幸せを数値化する、みたいなことが行われてますよね?例えば、経済成長しても人々が幸せにならなかったら何の意味もないんじゃないか、みたいな事が言われたりして、ブータンはGNH(Gross National Happiness)みたいな指標をつくってみたり。それは意味のあることだと個人的には思います。

ただ、少し考えれば分かりますが、問題は「どうやって幸せって計るの?」ということです。「幸せ」は非常に主観的だからです。

最もオーソドックスな方法は「あなた幸せですか?」と聞く方法でしょう。たとえば、1(めちゃめちゃ不幸せ)から10(めちゃめちゃ幸せ)までの10段階で○をつけてもらう。


さて、この方法の問題点は、ある人が幸せかどうかは、直前の出来事に大きく左右される、ということです。上のタクシーの例でいうと、その日クラブで僕らはかなり幸せだったのに、タクシーの件でかなり不幸せになってしまった。

例えば、幸せ調査人、みたいな人が、たまたまタクシーにうちらが乗っている時に電話を書けてきたら、うちらは、幸せ度10! みたいに答えたかもしれません。でももしたまたまタクシーを降りてから電話をかけてきたら、幸せ度3。。。みたいに答えたかもしれません。

これはフェアな幸せ度の計り方なんでしょうか? 幸せを計る上で、その一瞬のその人の主観に頼っていいんでしょうか?トータル(クラブにいた幸せな時間)を考慮に入れなくていいんでしょうか?



人生に関しても同じ事がいえます。例えば今、ある人が30歳だったとして、29際までの29年間、その人は本当に幸せな人生を送ってきたとします。でも、この1年ちょっと辛い。で、今その人の人生の幸せ度を計るとして、その人にインタビューをしたら、多分、29年間の幸せな期間はあまり考慮にいれずに、ここ1年間の辛い期間にフォーカスして、「幸せ度5くらいかなーー。。。」というかもしれません。

このデータをもって、その人はあまり幸せではない、と結論づける事は適切なんでしょうか?


より詳しくはこちらの本。いつも紹介してますが。。。

Thinking, Fast and Slow

Thinking, Fast and Slow




② 皆が幸せを合理的に計ろうとするわけではない。

さて、多くの人は幸せを人生の目的と考えているのではないでしょうか。

お金があっても不幸せだったら意味がない。お金がなくても幸せならば良い。お金が欲しいのは幸せになりたいからだ。という考えには多くの人が賛同するはずです。



だから、普通に考えれば、人は幸せになる為に合理的に考え、行動するはずです。でもそうでもないようです。

どういうことかって?タクシーの例で説明します。


僕は「まあ1ドルちょい払って嫌な思いをせずにすむなら(幸せを買えるなら)いいだろう」と思ったわけです。追加で1ドルちょっとを払う事がどれくらいの幸せをもたらすか(不幸せを軽減するか)を考えたわけです。

1ドルちょいって、ビール1本くらいの値段です。なので、次、飲むビールを一本減らせばいいだけだ、と考えた訳です。次回飲むビールを一本減らせば、今日タクシーで損した分を挽回できるわけだし、次回飲んだ次の日の二日酔いを軽減もできる。一石二鳥だ、とも思いました。

ビール1本飲んで得られる幸せと、タクシーの運ちゃんに追加料金を払って得られる幸せを比べたら、明らかに後者の方がでかいだろう、と考えた上での選択でした。(金銭的負担は両方同じ。)




ただ、怒ってしまった友達はそうは考えなかったに違いありません。

彼は「運転手は嘘つきだ!嘘つきに金なんか払わん!」と思ったのでしょう。彼はクラブでビールをぽんぽん買う人です。運転手に追加料金を払わずに被る不幸せ(楽しかったクラブの思い出を台無しにしてしまうこと)と、いつもぽんぽん買っているビールを一本減らす不幸せ(次回クラブで飲むビールが5本から4本になってしまうこと)を比べたら、明らかに前者の不幸せの方がでかいと思います。(いや、そうじゃない!というなら話は別ですが。。。笑)


なので、幸せを究極の目標とするなら、ここは払うべきだと僕は思います。(それが、僕が払った理由です。) だけど、皆が皆そう考え、行動する訳ではない、ということです。


*ちなみに、これは、どっちが良い、悪い、どっちが利口だ、利口でない、とかいうものではありません。上の文脈だと、僕は合理的で友達は合理的でない、と言っている様に聞こえるかもしれませんが、問題はそう単純でもないからです。

例えば、幸せを犠牲にしても正義を貫かなければならない時もあるでしょう。例えば、友達が「ここで追加料金を払ったら、この運転手は調子に乗って次も同じ事をするだろう。そういう行動が連鎖して、社会に不正義(この場合は嘘をついて金をだまし取る事)が蔓延するのだ。だから今の自分の幸せを犠牲にしてでもここは追加料金を払うべきではない」と考えたのだとしたら、それはそれで非常に説得力のある議論だと思います。幸せは究極の価値ではないかもしれない、ということです。


何が正しい行動なのか、については非常に有名なこの本を参照。。。僕の考え方は、非常に「功利主義的な」考え方だと思います。

Justice: What's the Right Thing to Do?

Justice: What's the Right Thing to Do?




③ 幸せを合理的に計算するには判断力が必要だ。

さて、これは僕の主観的な意見ですが、運転手に対して怒った彼は、普段は冷静で、合理的な計算ができる人です。彼が怒る所を僕はあんまり見た事がありませんでした。

なので、僕は、彼が怒ってしまったのには理由があると思っています。それは「眠さと疲れ」です。



僕らがタクシーを降りたのは朝4時近くでした。そして、僕らはクラブで踊りすぎて疲れていたし、眠かった。

だから彼は怒ったんだろう、と思っています。普段なら、いや、よくよく考えれば1ドルちょいだし、楽しかった思い出を台無しにして怒る程のことではないな、と冷静に考えるタイプの人です。



疲れていたり、眠かったりすると、判断力が鈍って直情的になる可能性がある、ということです。

さて、これに関連して、非常に面白い研究結果があります。

それは、貧困がもたらす認知力、判断力の低下についてです。



貧困の定義は、「1日1ドル以下で暮らす人」みたいな感じなので、貧困の人=お金を持っていない人、というのが一般的に定着している概念でしょう。もちろんそれは正しいのですが、他にも貧困は多くの事を意味します。

その一つが、認知力、判断力の低下です。


この本に載っているケースです。

Scarcity: Why Having Too Little Means So Much (English Edition)

Scarcity: Why Having Too Little Means So Much (English Edition)

サトウキビ農園を経営している農民は収穫直後はお金がありますが(貧困ではない)収穫直前はお金がありません(貧困状態)。この農民に対して、収穫前と収穫後にIQテストみたいなのを実施します。そうすると、収穫後のIQテストの方が圧倒的に成績がいい、というものです。(これは直感的に想像できるかと思います。)
収穫前のテスト結果は、収穫後の農民が一晩オールナイトしてテストを受けたときと同じくらいの成績らしいです。


つまり、貧困状態にある人は、普通の人が一晩寝ずに過ごした後の認知力、判断力しか持つことができない、ということです。


僕らはしばしば、貧しい人達をみて、「彼等はなんでこんな非合理的な事しかできないんだろう。だからいつまでも貧しいままなんだよ」みたいな事を考えがちです。もちろん僕も。


でも、それは、彼等が頭が悪いからではなく、貧困自体が認知力、判断力の低下を招いて、それが更に貧困を招く、という悪循環に繋がっている可能性がある、ということです。


タクシーのケースに戻ります。彼(僕の友達)は貧しくありません。ただ、睡眠不足と疲れによる認知力、判断力の低下が、幸せの計算方法を間違えさせたのかもしれません。


④ 人は観察される事を嫌う。

さて、こんなことをタクシーから降りて、よなよな考えてたわけです。ちなみに、僕は彼の分も払ったわけですが、彼はそれに対しても怒ってた訳です。笑 「お前、なんで払うんだよ?払う必要ねーだろ」みたいな。笑 

で、なんで払うんだよ、みたいにせまるから、上の「幸せ計算の持論」を発表したわけです。朝の4時に。笑 いろんな研究結果とかを引用しながら。笑 




で、当たり前ですが、彼はもっと怒る訳です。笑 なんでかって、僕がインテリぶって、「冷静に」「中立的に」彼を「観察」「分析」したからでしょう。ごもっともは反応だと思います。

中立性に関してはこちらを参照:
僕と世界→ http://d.hatena.ne.jp/Vivalavida0423/20131108/1383868400






人は「観察」の対象ではありません。ましてやそれを「分析」されるのは気持ちが悪いのではないでしょうか。



自分が何かに一生懸命取り組んでいる時に、なんか外から人がやってきて、僕の行動を「観察」し、なんやら小難しい理論にあてはめて「分析」されたとしたら、心地よい気がしないのは、普通の人間心理な気がします。


(一応ですが、僕は彼と信頼関係があって、彼は後々「お前らしいな。笑」とも付け加えてくれたので、このケースは許してください。笑)




これは、国際協力の世界でよくある、impact evaluation(事業評価)とかに対して言える事です。

例えば、女性のエンパワーメントプロジェクトをある国際機関が行うとします。そしたら、そのプロジェクトが本当に女性をエンパワーしたのかどうかについて(エンパワーの定義については非常に難しいので飛ばします。。。)評価、モニタリング、みたいなのが行われる訳です。

これは意味がある事だと思いますが(やったらやりっ放し、なんの事後評価もなし、じゃ、意味ないので。。。)やり方に関して、上に書いた理由で、気をつけなければいけません。


なんだかしらないけど、その土地と何の信頼関係もない、めちゃめちゃ給料の良い国際機関とやらで働いている人がずかずか家の中に入ってきて、女性に「プロジェクトの後、旦那さんとの関係はどう変わりましたか?コミュニティでより発言権が増したように感じますか?」とか聞くんですよ。おいおい、って感じでしょう。笑 プライバシーもクソもあったもんじゃありません。

で、その人が、それを「データ」として論文に掲載して、出版なんかしちゃって、印税なんかもらっちゃって、学会とかで「これは素晴らしい発見だ!」なんて評価されちゃうわけです。笑 「発見」ってなんだよ「発見」って、みたいな。コロンブスの「新大陸」「発見」ばりの「発見」です。笑

いや、意味ないとは全然言ってませんよ?(ってか大学院でやってることとか、まさしくこういう事だから。。。笑)

でも、考慮にいれるべきポイントではあるでしょう、ということです。








⑤ まあ、「知の世界」は面白い。



とまあ、こんな事をつらつら考えていたわけです。それだけなんですが、まあ、こんな、日常の出来事からでも、色々学ぶ事、考察できることがあるんだなー、ということです。


いつ、どこにいても学ぶ事はある、ということでした。だから勉強は面白いなー、と。


おしまい。