僕と世界

最近、ちょっと英語やスペイン語で本を読むのに飽きて、日本語の本にはしってました。笑 Kindleを日本で手に入れたのを良い事に。笑 ブログも日本語が最近多いです。笑 



で、最近読んでめちゃめちゃ面白かったのがこれです。


何故面白かったか、結論を先に言うと、社会科学や世界観、哲学とつながるところが沢山あるからです。


この記事でも少し触れましたが、僕は、「自然科学には絶対的な真理があるけれども、社会科学には絶対的な真理がないので、一つの結論を断定するのに抵抗感がある」と考えていました。


けれど、この本では、実は自然科学にも絶対的な真理なんかないんではないか、ということを説明しています。「量子論」という分野を説明しながら。


少しだけ説明します。本当に簡単に、です。(例によって例のごとく、間違ってたら指摘してください。笑)



中学生だか高校生だかの時に化学で習った様に、原子というのはこんな感じの形をしていると考えられていました。

電子というのが陽子というのの周りをクルクル回っているよ、と。


けど、どうやらそれは違うぞ、というのがいろんな実験から分かってきた。

一つ目に分かったのは、上の図だと、電子は粒子(=小さい粒)の様に見えるんだけれども、実は波の性質を持っているんだよ、ということ。確かに人間が観察した時には、電子は一点に存在している様に見えるので、ずっと電子=粒子だと思われていたんだが、それでは説明がつかない実験結果がたくさんでてきて、電子=波だと考えるとすべてきちんと説明がつく、ということが分かってきたみたいです。


そして、二つ目に分かったのは、電子は陽子の周りにどういう風に存在しているか、ということ。電子は、ある瞬間はAという場所にいて、次の瞬間はBという場所にいて、という感じで、ピョンピョン飛び回っているよ、というのです。(いる可能性がある範囲は決まっていて、その中のどこかに、確立分布的に現れる、ということです。)そして、その場所は、確立的には予想できるけど、完璧に予想はできないよ、ということです。(Aという場所にいる確立は〜%、Bという場所にいる確立は〜%、ということはできる。けれど、この場所に確実にいる、ということは言えない、ということ。)


そして、次のところが肝心です。


「僕たち人間が電子を観察すると、電子はどこか一点にいるわけです。でも、見ていない間はどうなってるか分からない」「人間が観察した瞬間に電子の状態が決まる」ということです。(なぜかというと、電子は波だからです。波は一点に場所を特定できません。でも、僕たちが見たときだけ、何故か波が粒子に変わって、一点に表れる。そして、その場所は確率的にしか予言できない、ということです。これを、量子力学のコペンハーゲン解釈、と言います。)



いや、イメージわかないですよね?笑 本を一冊読んでもイメージわかないのに、こんな数行の説明でイメージ沸くわけありません笑 興味のある方は是非本を読んでみてください。笑









さて。何が面白いかというと、「観察するという行為が物質の状態に影響を与える」という点です。

普通は、観察してようがしてまいが、そこにあるものはあるし、ないものはない、と考えるでしょう。少なくとも物理の世界では。

ペンが机の上にあるのは、「そこにペンがあるから」であって、「僕たちがペンを見るからペンがある」のではない、と考えるのが普通でしょう。

量子力学というミクロな世界(原子より小さい世界)の物理学が登場する前の物理学は、そう考えていました。






でも、量子力学はそれをひっくり返したんです。

アインシュタインはこのコペンハーゲン解釈に強く反対したようです。「電子が次の瞬間どこにあるか分からない、なんておかしい。なにか絶対に法則があって、それを見つければ電子が次の瞬間にどこにあるのか予測できるはずだ。人類はまだその法則を見つけていないだけだ」と考えていたようです。この世界を支配する法則がある、と考えていたのです。

神はサイコロを振らない」という彼の有名な言葉は、これを表しています。




それに対して、コペンハーゲン解釈は、「自然の本質は『あいまい』なもので、観測者の視点によって物質の状態すらも変化するんだよ」ということを言っています。特に、観察対象が小さい場合には、相対的に観測者の影響が大きくなるので観察対象に影響を与えやすいみたいです。だから、電子みたいに極小の物質の状態は観測者の影響によって変化してしまう。











さて、何が面白いかというと、これは今僕がやっている調査の仕事と関わるからです。

こないだも書きましたが、今やっていることは、地元の人にインタビューをして、彼等の生活を調べる、ってなかんじのことです。

僕の仕事は、彼等の生活を「観測者」として分析することです。「中立的な立場」で。


その為にインタビューとかをするわけです。







でも、そんなことできるんでしょうか。本当に「中立的な観測者」として彼等の生活を分析することなんてできるんでしょうか。





量子論で観測者の視点が物質の状態に影響を与える様に、社会調査でも調査者の視点が調査対象の状態に影響を与えるんではないでしょうか。


特に、マクロなデータをネットで集めて分析する、みたいに観察対象が大きい場合には調査者(僕)の影響は大きくないですが、観察対象が、一つの家族の生活、みたいに小さい場合は僕の影響は大きくなります。ちょうど、電子という小さい観察対象が観測者の影響を大きく受けるみたいに。


僕は、「単なる日本からやってきた中立的な観測者」では、きっとあり得ないんです。関わっている。ここに住む人々と。彼等に影響を与えている。
















生きていく上で、常に中立、なんてことは、きっとできないんです。世界を観測してるだけ、と自分では思っていても、世界に影響を与えてしまう。

こないだも書いた様に、自分は中立である、様々な人にいろんな視点を提供するだけだよ、というのは、多分無理なんです。

「僕」と「世界」は切り離された別々のものでは、きっとないんです。




だから、どんな形であろうと、これまでも世界と関わってきたし、これからも世界と関わっていく。それしかないし、それで良いと思う。





マイケルジャクソンが言った様に、きっと、We are the World なんです。 

The world is there ではなく。